ベトナム入国

●イミグレ

 バンコックのカオサンで、ベトナム行きのチケットを買った。フランス航空で、片道約13000円、陸路で中国へ抜けるつもりなのでホーチミンINと、ラオカイOUTのVISAも一緒に。
 出入国が空港使用なら約6000円で、出国が陸路の場合、約1万円近くになる。
 ベトナムではビザに出入国の地名をハッキリ書いておかないと、トラブルの元になったり、賄賂を要求されたりする。50ドルとられた旅行者にも会った。出入国とは国の許可という面と、入管職員の許可という二面がある。賄賂は後者の仕業。
 こんなことがあった。3カ月のビザをとってケニヤのナイロビ空港に降りたとき、入管職員から賄賂を要求された。理由は「あなたは、帰りの航空券を持っていませんね」ということだった。本来必要ないので、賄賂は断ったが、するとボクらを無視し、後回しにする。しかたなく少し騒ぐと、入管職員は次の手を打ってきた、入国スタンプを押す変わりに、せっかくとった3カ月ビザを取り消し、1カ月にしてしまったのだ。「そんなこと在りか」と思うが、現実にあった。入国するまではイミグレは国家権力。

 



 バンコックを飛び立ったエアー・フランス機は、一路ホーチミンのタンソンニャット空港に向かう。機内は予想に反して、フランスからの旅行者で混雑していた。メコンデルタ上空を飛び、1時間半後に到着。あっけない近さだった。こんなに近いのに、訪れたのは今回が初めて。
 いつの場合でもはじめての国は緊張する。特にベトナムの評判はよろしくない。「あそこは、ボルよ」と、何人もの旅行者から聞かされていた。
 イミグレを通過し、両替所で、1万円を両替してビックリ、100万以上のベトナム・ドンの札束が返ってきた。本来ならその場で現金をチェックしなければいけないが、大金を手にしただけで、手が震え、目がうつろに、なさけない。背後にはタクシーの運チャンが早くしろといわんばかりにこちらを凝視している。全部を数えることを諦め、札束をしまい込んだ。
 振り向くとさっそく運チャンたちがにじり寄って来る。ボクらはカモ。多少高めの運賃(7ドル)で手打ちをして、安い宿が集まる“ファングーラオ通り”へ向かった。
 途中、運ちゃんは例に寄って「お客さん、いい宿があるよ」と持ちかけてくる。
「ノー、サンキュウー」
「でも、安くていい宿なんだ」
「宿予約してるんだ」
困っている時や、運ちゃんをはじめっから当てにする時以外断ることにしている。この時、日本人特有のニコニコ顔で断っては、相手に脈ありの印象を与えてしまうので、鬼のような顔をしてキッパリ言う。相手がしつこそうであれば、「もし別の場所に行けばお金は払わない」と言ったこともある。この運ちゃんはあまりしつこくなかった。
 宿はダブル13ドル(ホットシャワー、トイレ、クーラー、冷蔵庫、TV)に決めた。ここのTVはかすかながら日本の国際放送が映っていた。両替金を数え直したらピッタリ。たったこれだけでこの国への信頼感がでてくるから不思議。

 

 


●シクロ

 ホーチミンは800万ほどの人口だが、高層ビルの立ち並ぶバンコックから来たせいか、そんなに大きな都市には見えない。
 噂に聞いたホンダのカブと自転車の多さには驚く、カブにはサイドミラーがない。ということは、横や後方には注意が散漫なのかもしれない、要注意だ。交差点などでは、乱れながらもなんとか交通の流れを作り出している。
 女子学生の白いアオザイがまぶしく、つい見とれてしまう。
 シクロと呼ばれる人力車もノタノタ走っている。ボクらバジェット旅行者にとってトラブルメーカーでもあるし、味方でもある。
 前方部に乗るところがあり自転車本体は後方にある。インドのリキシャとは反対の造りだ。同じようなスタイルの人力車はマレーシアにもあるがベトナムの方が座席が小さい。それでも実際は、1~4人が乗るのだが。料金は前交渉制。

 

 宿のアテンダンスは何かと助けてくれる。キーの受け渡しのさいに、一言二言聞いておくと、初めての土地であっても、大きくぼられることはない。「シクロはいくら」「フォーはいくら」とよく利用するものの値段と、その国の生活水準を知るために、公務員などの給料も聞いたりする。ベトナムの若い教師は約30ドルと言っていた(中国は100ドル強、ラオスは10ドル)正確では無いかも知れないが、後で役立つことがある。だから宿を選ぶ際、働いている人がフレンドリーかどうかも大切。
 シクロは便利だが、ひどいのもいる。たとえば行き先を告げ、交渉がまとまっても、目的地に着くや、「それは1kmあたりの値段だ」と変化する。またベトナム・ドンは千単位で使われることがあり、3本の指だと3000ドンだと思って乗り、目的地に着くと3ドルに変化する。

 聞くぶんには面白い話が多いが、運悪く悪党に当たれば、その町の印象自体が悪くなるので、要注意の乗り物といえる。でも、選ぶことができるので、落ち着いて交渉すれば利用者に有利なのだ。ワルはほんの少しと思われる。
 ホーチミンの食べ物はタイと比べ甘い。また麺用のスープなどに化学調味料の味がして食後口がベトついたりする。今回の旅行で、いったい何年分の添加物が体にはいったことだろうか。
 それにしても、味の素を使う前に“うまみ”として使われていたものがあったはずで、その伝統はどうなったのだろうか。
 パンはみかけはフランスパンだがフランスで食べたパンとは違い、中がスカスカしているものが多く、味にはばらつきがあるようだ。
 コーヒーは深煎りで、粉も細かいせいか苦みが強く、コンデンスミルク入りで飲む人が多い。アイスコーヒーを飲んでいる人も多く、アイスコーヒーのないヨーロッパから来ると、アジアを感じる。


 

 

○1人と50人

 ある世代の中には、ベトナム戦争は「終わった」ではなく、「終わらせた」と言える人も多いことだろう。日本からも、沖縄や全国にある米軍基地から爆撃機などが飛び立った。この戦争に日本は“へいたん部隊”、として参加している。
 韓国軍も約6万人弱この戦争に参加していたことも印象的。
 ベトナムは勝ったと言われる。でも、米国軍の死者は6万人近くに対して、ベトナム人は300万以上(当時の人口は約3700万人)が亡くなったことを考えると、複雑。米国寄りの日本に暮らしていると、米国人の悲劇がよく伝えられるが、実際は米国人1人に対してベトナム人50人以上が亡くなっているのである。“勝ち”の代償は大きい。
 それに、1971年までの10年間にまかれ続けた枯れ葉剤には、猛毒のダイオキシンが含まれていて、やっかいなことに容易には分解されない。ホーチミンの『戦争証跡博物館』に展示されていたホルマリン漬けの胎児は、戦争というより、放射能と同じく、それ以降の問題と思える。
 それにしても信じ難い作戦だ。これにより、戦後ベトナムではどれだけの人が流産や「障害」などで苦労することになったのだろうか。よくゼロからの出発という言葉があるがベトナムの戦後は後遺症が大きい分、大変なマイナスからの出発であり、今後も引きずっていかねばならないのが“枯れ葉剤”なのだから。

 ベトナム戦争世代にとって心に残る戦争でも、戦後世代にとってはどうだろうか、経験の違いはいかんともしがたく大きい。遠い昔のことでほとんど関係ないように感じている人が多いのかもしれない。
 戦争証跡博物館で石川文洋氏のベトナム戦争写真展が開かれていた、やはり戦争世代こそが、もっとベトナム戦争を深く理解し、伝えていくことが出来るのではないかと思う。

 ホーチミンの近くに、クチという町があり、この辺りを中心に解放軍が250kmも地下トンネルを掘ってゲリラ戦をしたという。ボクも観光用に少し大きくしたというそのトンネルに入ってみた。狭く「解放軍の戦士でも、5kmの移動に20時間かかりました」というから、その大変さが分かる。枯れ葉剤も大量に撒かれた所で、ガイドさんによると「戦後2年目までは草木が全く生えなかった」という。
 このガイドさんは米軍との戦いを説明していたので、ベトナム共産党の宣伝マンで、さぞ米国が嫌いなのだろうなあ、と思っていたところ、
「兄弟は既に米国に住んでいます。自分も本当は行きたいし、行くこともできるのですが、老いた両親がベトナムから離れないのでしかたなくここに居るのです」
「でも、子どものことを考えたら米国へ行ったほうがいいのですが」
 こういうことを聞くと、この国は、治療されない大きなキズがあるように思えてならない。
 少なからずのベトナム人が米国に魅力を感じている。英語熱が盛んで、出会った青年に「何処か行きたい国は」と聞くと「米国」と答える。日本の若者も米国へ行きたがるがここの国も同じ傾向がある。アジアへの感心はどうなのだろうか気になる。


●ダラートとニャチャン    

 


 ホーチミンに着いた翌日申し込んだ中国ビザが、5日後にやっと出た。1カ月のツーリストビザで15ドルだった
 行きつけのお店もできて、シクロのおじさんも顔見知りになり、最近では値段交渉もほとんど必要なくなった。全体が楽になってきた頃になると、出発になる。カオダイ教というキリスト教、仏教、イスラム教、儒教、道教を取り混ぜたというユニークな寺院を見学した後、ツーリストバスに乗りダラートへ向かった。
 途中には、コーヒー畑や紅茶畑が広がる。赤く熟した実や、まだグリーンの実が、同じ房にすずなりに付き、そうした塊が1本の枝にいくつもあり、さらにその枝が1本の幹からいっぱいのびている。収穫は手摘みで大変そう。
 ダラートの町のコーヒー屋さんで、ばい煎の様子を見学させてもらったが、ばい煎といっても、古い大釜のようなもので大胆に焼くだけ。

「ダラートでばい煎をしているのはウチだけよ」貴重なお店なのだ。生豆にバラつきがあるが気にしていない。深煎りで、豆がテカテカ光っていた。
 この町は標高1500m位の所にある避暑地。町にはフランス風といわれる建物が見られ、ベトナム人にとっては新婚旅行のメッカらしい。が、面白い町ではなかった。町の中心にある湖もそれほどきれいな感じがしない。
 それと対称的にニャチャンは、椰子の木と砂浜が何キロも続いている風光明美な海岸リゾート地。海岸は遠浅のせいか砂が巻き上げられ多少濁って見えるけれど、泳いでみるときれい。10月だったせいか人も少なく、デッキチェアに座り海を眺めているのが似合う。フランスのニースでは、無料のイス以外は座らなかったが、ここではまる一日借りても100円もしないので、心からのんびりできる。
 でも寝ていると重そうな天秤を、細い腕で担いだおばさんたちが
「カニ食え、海老食え、バナナ食え」と言いながら、入れ代わり立ち代わりやってくる。「コーン、カモン」(ノーサンキュー)というとそそくさと去ってゆく、あまりしつこくはない。
 泳いだり、本を読んだり、こういうのをリゾートライフ満喫というのだろう。
 ダム市場内の食べ物屋に入って、ヨーグルトを食べ始めると、来るわ来るわ、お金を貰いにくる。ポケットにはいつも500ドン札(約4円位)数枚を入れていてスタンバイOKではあるのだけれど、人が多すぎる。それにゆっくり食べることも出来ない。ホーチミンのベンタイン市場ではほとんど来なかったのに。
 こいう場合、主に障害者に渡すことにしていたが、ここでは、女性の老人が多いことが印象に残った。やはり戦争の影響だろうか(一説によれば25才以下の人口は全体の3分の2という)ベトナム戦争の後、カンボジアに侵入しポルポトと戦い、中越戦争を経験し、カンボジアから撤退したのはやっと約10年前。ベトナムの戦争はずっと続いてきた。

 


 

●バスからの風景

 ベトナム人の朝は早い。この日、長時間バスに乗るので、朝5時前と、めずらしく早く起きたが、外ではもう人が動きまわっている。農業に力をいれているし、暑い国だから、と考えられるが、やはり勤勉なのだと思う。
 今までバスで走ってみて、道路事情はあまりよくないようだ。新しい工事も、そんなにされているようにはみえない。都市部を離れた田舎を走る道路は、異なったベトナムの顔を見せてくれる。
 牛や水牛はもちろんだが、あひる(だと思う)の大群をうまく操作しながら歩いている人もいる、この鳥は水田などの雑草取りも兼ねているのだろうか。籾なのかとうもろこしなのか、雑穀、マメなのか、道路の端っこに、それらを大量に干している。これは車に踏んでくれといっているのだろう、実際バスはこれらの上を走ってゆく。道ばたには、ライスペーパーが天日干しにされていて、正に生活道路。
 自転車や、約8割のシェアーを占めるホンダ・カブが活躍している。自転車は庶民の足としてだけでなく運搬手段としても利用され、沢山の荷物を運んでいる。カブも同様で、中には後ろに大量の荷物を積んだ上に3人、つまり運転手もいれて4人乗りもいる。このバイクのサスペンションはきっと強いに違いない。
 目の前で3人乗りのカブがころんだ。道路から転落したトラックを何台も見た。バスとトラックぶつかり、バスの側面全部がなくなっている、乗客はバスから降りたばかりのようで、ボー然としていた。この事故にはゾーっとした。トラックが故障し、修理している姿はたびたびみられた。これは、たまたま故障してしまったのではなく、たぶん修理しつつ運搬しているのだ。恐ろしいことにブルドーザーがパンクして民家に突入している。ブルドーザーのタイヤもパンクするのである。
 こう沢山事故をみると、車の数が多そうに思ってしまうが、実際は殆ど自家用車は見かけることはなく、それに営業車もとても少ないのだから、運転が如何に下手かわかるというもの。ベトナムでは乗り物に注意しなくてはならない。
「あ~、デカイ犬」向こうから、窓から首を出した犬を乗せたワンボックスカーが近づいて来る。「大きいな」と思ってみていると、それはなんと馬の首だった。馬がニョキーと首をだしているのである。たて髪をなびかせ気持ちよさそうだ。驚いているボクに気付いて、ニコッとしたような気がした。どうやって乗せたのか。歩いて乗ることはできないはずだが。ベトナムの乗り物はなんでも運ぶようだ。

●ホイアン

  かかってホイアンに着いた。もう外は暗くなっていた。宿はW12ドルに入ったが、翌日、10ドルの宿へ引っ越しした。
 この町は16~17世紀頃に日本人が1000人以上も住んでいたといわれ、日本人が架けたといわれる『来遠橋』やお墓もある。中華風の建物が多く、黒い瓦屋根の町並みは、どこかなつかしさがある。家の入り口は狭くても、奥行きがあるのが特徴。夜になると赤提灯が軒から下がり、ほんのりと落ち着いた雰囲気になる。町全体が、ひと昔前のたたずまいのよう。
 欧米人の旅行者が多いのは、ヨーロッパにはないこんな建物や町並みに魅かれてのことだろう。
 この町で“ニー”と知り合いになった。ホイアンは仕立屋さんが多く、アオザイやスーツ、帽子などをオーダーメイドで安く作ってくれる。ニーはその客引きをしているの。
 道を歩いていたら、ニコッとして、小学校で使うような小さいイスを持ち出して「座れ」という。言われるがままに座り込んで、いつのまにか親しくなった。
 彼女は4カ月の短期契約でここで働いている。朝8~夜10時まで働き、休みはなし、日曜も働く。1日1ドルの収入で、1カ月30ドルになる。ベトナムでは、基軸通貨のドンと共にUSドルも使える。ホーチミンのキャシングマシンでお金を引き出したら、ドンじゃなくドルだったので驚いた。たびたびの戦争やインフレがそうさせているのだろうか。
 ニーは5人兄弟の一番上、経済的理由で高校を止め、一家の収入源として働いている。少し英語を話すため、このお店の客引きとして雇われているが、いままでは裁縫関係の仕事をしてきたという。マレーシアへも約1年出稼ぎに行き、その時は「月100ドルもらえたの」と嬉しそうにしゃべっていた。
 ベトナム人らしく「学校に行きたい」「勉強したい」といっていた。ボクには耳が痛い言葉。状況は厳しそうだが、あきらめないでほしい。日本から手紙を書く約束をした。
 ベトナムは経済的には貧しいそうだが、識字率は約9割ととても教育熱心。向上心も強い。
 フランス統治時代にはベトナム人気質を見抜いたフランスがカンボジア統治にベトナム人を使い、役所の半分以上がベトナム人で占められていたという。一説によると、ベトナム人は米国やフランス指向からか、インドシナの周辺国を見下す傾向があるらしい。タイでベトナム人は嫌いだと何度か聞いたことがあるが。
 敗戦後、日本の状態はこんな感じだったのかもしれないな、と想像した。カンボジア撤退から9年、人々の向上心と、欧米指向で、経済に邁進している姿は日本に近いのかも。
 ホイアンの郵便局の壁に、手書きの世界地図が書かれてあった。アメリカ大陸やヨーロッパなどはしっかり書かれてあるが、日本は北海道も九州もなく、かまぼこ板のようにいいかげんに書かれてあったのが目にとまった。
 ホイアンの市場で会ったナオミさんと食事をした。「担ぎ込まれたら、這ってでも逃げよ」と噂されている病院で働いていた看護婦さんで、ホーチミンで食事をして2万ドンのところを20万ドン取られたそうだ。看護婦さんの旅行者にはよく
会う。

 

 


 

●値切る

 以前、ネパールの食堂で「食事をした後に、値切る旅行者はイヤだ」と聞いたことがある。そんな不埒な奴がいるのか、と驚いたことがある。確かにいろんな旅行者がいるのでさもありなんだが、もし値引きを求めることがあっても、「食べる前にしろ」とボクは言いたい。ところがボクもやってしまいました。
 ホイアンで、値段を聞くのを忘れて出されたお茶をのんだ。中国の雰囲気だからとつい油断してしまった。会計になって、しっかり高い値段で請求されている。一寸迷ったが一発闘うことにした。お客にとって値段が分からないということは、払う必要がないのだと。それで、「お茶はフリーだろ」と言ってみた。実際、有料とはどこにも書いてないのだから。結局押し問答の末、タダになったが、悪かったかな、という思いもあって次の日、また同じレストランに入ってみた。オーナーは微笑んだ。これ以降、ボクらのお茶代はタダになった。
 どうして、こんな態度になってしまったかというと、それまでにいろんな伏線がある。この国はヨーグルトをたのんでも、店員によって多少値段が違うことがある、2000ドンが2500ドンになったりする。レストランでもローカルメニューとツーリストメニューが異なることがたまにある。フライドライスはあるけど、ホワイトライスはない、という風に。お手拭きとか、お茶だとか、果物だとか注文とは別に出されることがある。それがサービスの場合と有料の場合があり、たいした金額ではないので気にしなければいいともいえるが、やはり、白黒をハッキリさせておきたい気持ちが働き、黙ってはおれない。
「お手拭きは一個しか使っていないよ」

隣席の欧米人ががんばっている。そう、何ごとも納得しない内にOKをしてはならないのです。日本人はこの精神は弱い。ボル方も悪いが、ボラれる方も悪い。
 以前、食べ物でボル国エジプトで、それも空港内で、気づいた限りでは日本人だけにボっているコーヒー屋を見つけ、闘ったことがある。旅行をしていて、そいうことが何回かあると、日本人は甘く見られていることが分かる。だからつい、がんばってしまう。一時期、旅行とは闘いだ、と思ったことさえある。以前香港で“日本人料金”のことが話題になったが、他の国でもあるとボクは睨んでいる。
 この“ボル”が原因で旅行者の間でも、ベトナムに対する評価が異なる。短期の旅行者は評価が高く、国を渡り歩く旅行者に評価がよくない傾向があるみたい。


●除草剤と不発弾        

 


 チャンパ王国の『ミーソン遺跡』を見学した後、ホイアンからダナン経由でフエへ向かった。

 ベトナム最後の王朝があった古都フエ。王宮や寺院など古い建物が点在するが、1968年にはじまるテト攻勢の激戦区でもあり、建物が大胆に壊されている。町の中心をフォン川がゆったりと流れ、きっと昔はいい町だったのだろう。
 ここからはDMZツアーがある。DMZ(非武装地帯)とはフランスからの独立戦争で、1954年ジュネーブ協定で定められた、北緯17度をはさむ地域。軍事境界線をベンハイ川と決めたようだ。北と南ベトナムの境界であったことから、米軍との激戦区だった。その戦跡を見て回るのがDMZツアー。
 この境界線や、米軍のロケット基地や通信基地があったというロックバイル周囲は、ゲリラを恐れ、見通しをよくするために、枯れ葉剤をまき、ナパーム弾で木々を焼き払ったという。今でも、草は生えているようだが、木々が少ない。赤土がおおく、土壌が貧しそうなのも影響しているのかもしれない。しかもダイオキシンは容易には分解されないので、今も残っているのだろう。
 枯れ葉剤は田畑だけではなく飲み水の川、村にも降ってきた。「皆もう、服のなかまで油がかかったように濡れちゃって」と資料に書かれていた。毒薬だとの認識がなかった時なので、処置をしなかったようだ。
 このあたりのある地域では半数が流産だったという話もある。米国は合理的に考えるが故か、怖いことを考え出す。しかしそれには日本も協力したが。
 ここから近くのダクロン橋はホーチミン・ルートの重要地点だったという。ホーチミン・ルートは北からから南への物資などの補給ルートで、主にラオスを通過していた。米国軍もラオスを直接攻撃したり、ラオスの少数民族(主にモン族)にCIAなどがお金や物資などを与え、軍事訓練をし、このルートやべトナム軍、その支援を受けたラオスの革命軍を攻撃させた。どれだけのモン族が戦死したか分からないが、相当な数が亡くなっている。
 近くにはアメリカ軍のケサン基地跡があり一辺が2km位だろうか、赤土が広がっている。元々はコーヒーなどの畑だったらしく、徐々に元の姿に戻りつつあり、コーヒーや胡椒などの畑が見られた。でも、ダイオキシンのことはわからないが。
「昨年、この辺りで20数人が不発弾で亡くなりました」と聞いた時はショックだった。ベトナム戦争は終ったはずではあるが、23年経過した今も影響は続いているのだ。死んだ人たちは戦争の犠牲者だけれど、事故死ということになる。山仕事、畑仕事をする農民や山岳地方に住んでいる少数民族は、常にこうした危険ととなりあわせ。こういう死に対して、米国や国際機関は何か援助なり対策を行っているのだろうか。ベトナム政府は少数民族に対して山から降りるように指導していると聞いたけれど、そんなことは意味がないように思う。今だ、ベトナム戦争は続いている。

 


 

●元気な女性旅行者

 日本女性シホさんは大学4年生でタイ、インド、ラオス、ベトナムと回っていた。
「タイが好きで、タイ語を自分で勉強して、ラオスに来たらラオ語も話せるようになったの」
「ビエンチャンで日本語の教師がいなくなったので、教えてくれと突然頼まれ、ビエンチャンの大学で1週間、教えていたの」
受講料は1人1回4バーツ。旅行のポリシーは「地元の人と話すこと」とキッパリ。古い英語のガイドブックと小さい荷物で、たくましい。
 シホさんが現れた時、ボクは日本人の医者と話していた。
「団体の健康診断の場合、実際はほとんどカルテで判断し、診療には意味がなく、悪いところある?と聞いて、ないと答える人は健康と判断するんです」医者も忙しく大変そうだ。そこへ、彼女が飛び込んできて、突然「お部屋、シェアーしてもらえませんか」ボクらはもうツインの部屋に入っているから、そのお医者さんは嬉しそうにして、二人でツインの部屋に消えていった。こう聞くと、えっと思うでしょ。でも、旅行中だとこういう事はよくあることなのだ。
 ホーチミンで会った女性も大学4年生。「はじめての就職はミャンマーで働きます」
「行ったことあるの」
「なくて、ベトナムに来るまえに行ってきました」
現地採用で、初任給は2万円程度という。行ったこともない所に応募するとは、愉快な選択。
 ホーチミンで会った別の女性も、ベトナムの現地採用で日本語教師をしていた。
「給料が安い為に、日本に帰る(行く)交通費をつくるのが大変、でも日本で暮らすよりはいい」
ベトナムは3年めで、その前は韓国に居たという。旅行をしているといろんな生き方の人に出会う。概して女性の方が面白く、多彩な生き方をしているように感じる。以前旅行中に会った米国人に「日本は本流が強すぎるヨ」といわれたことがある。熊本は天草で英語教師をしていた時の感想だそうだ。生き方のパターンというか、こうあるべき、こうすべきがが強く、多様な流れ、生き方を認め合うとよいうより「本流」か、さもなくば「その他」だと。
こういう人たちをみると、変化してきているのかも知れない。

 今までずっと快適なツーリストバスでフエまで来たこともあって、ハノイまでもこの深夜バスを利用したが。
 満席の中型バスで、最後尾に座ったため、シートが小さく、後ろに倒れもせず、しかも体の大きい欧米人と一緒で窮屈きわまりない。おまけに隣のスウェーデン人が酔ってしまい「ゲエ、グウエー」と吐くものだから、もう修羅場。午後6時に出発して翌朝10時半まで、ほとんど身動きできず、寝ることもできないまま、それでもバスは走り続け、ハノイに着いた。このバスはモロッコのワルザザード以来のハードさだった。
 宿はホアンキエム湖の近くでW10ドル。この辺りは小道が多く、建物の壁面を利用した小さいお店やマーケットなどがひしめいている。食材は豊富で、中には犬の丸焼きなどもある。
 ハノイに来て、中国が近づいたと感じる。ホーチミンとは異り、アオザイは少なく、人の接し方が淡泊。7年前に行った中国ほどではないが、サービスというものを知らない人がいる。お店やレストランで、「ありがとう」といわれればまれ。見ていると、ベトナム人どうしも何も言わない。こういう文化、今では貴重だ。
「ハノイはほとんどぼらないよ」と聞いていた。他の地よりはいいが、たまにぼってくるところもある。でもこれにはしかたない面もある。
 ベトナムは列車や博物館など、外国人に対して“外国人料金”を設定していて、地元の人よりも高くしている。だから、その風潮が広がるのも無理はない。圧倒的経済格差のある国で、旅行をさせて貰っているのだから多少はしかたないと思ってはいるが、いざ直面すると、腹がたつ。もちろん悪い人たちではないことは分かっているのだが。
 懲りずにまたツーリストミニバスに乗り、中国国境近くの少数民族の町サパへ向かった。14ドル。途中、山の斜面にネパールを連想させる美しい棚田が広がる。幾何学的できれいだが、見るからに畑仕事はきつそうだ。少しずつ高度は上がっていく。このバスにはボクら日本人2人、イスラエル人2人、スペイン人4人、他に何人かいたが、皆、英語がうまくない。バスには運転手の他にガイドが乗っているのだが、英語での説明の度に「分かったかい」というのだが、皆、シーン。面白い現象で、ベトナム人だけ英語がうまい。ヨーロッパ人だからといって、英語を話すとは限らない。12時間かかってサパ到着。


 町は標高1500m位だが、周りには3000m級の山々が連なり、ベトナムの最高峰もこの辺り。トレッキングも盛んで、アウトドアの好きな欧米人がここでも多い。どうも彼等は旅行とアウトドアが近い距離にあるように感じる。勿論マーケットやショッピングも楽しんでいるが、それ以上に、自然や身体を動かすことが好きそうだ。ホーチミンなどは日本人が多いが、トレッキングにサパまで来る人はとても少ない。
 目の前に大きく広がる山々を見ることができる部屋に入った。
 サパは、大きな村といった感じだが、土日ともなると普段より大きい市(いち)が立ち、色とりどりの衣装で着飾った少数民族の人々が、村々からやってきて、にぎやかになる。これを目当てにくるツーリストも多い。ベトナムも中国も50以上の少数民族が暮らしていて、ラオス、タイ、ミャンマーなどと合わせ、この山岳地一帯は少数民族の宝庫といえる。
 市場で、フルーツ屋さんのスワンと親しくなった。行くと「座れ、座れ」というので、度々座り込んで、バナナやオレンジやリンゴなどを売るのを手伝った、といってもただ座っているだけだが。
 売るのを見ていて分かったのだが、地元の人でも彼女は値段を下げない、常にフィックスプライス。ボクもそうだったがこれは誤解をまねく。マーケットでは値切るものと思い込んでいたボクなどは、最初、値段を下げない彼女に腹を立て、ケチーと思い込んでいたのだが、彼女は言い値が売り値なのだ。それにしても顔が日本人と似ている。

●子供達

旅行中、被写体が人間の場合、どうやって写真を撮ろうかと迷う人は多いと思う。シャッターチャンスのことではない、写される側のこと。
 はじめは悪いとは思いながらも他のツーリストと同じように、少数民族の人たちを写真に撮っていた。ところが子供の中に嫌がる子がいた。無理もない、彼女や子供たちを目当てに来る旅行者は、多少遠慮しながらも「バシャ、バシャ」とやるものだから、イヤになる子が出てこない方がおかしい。
 その子は学校の帰りらしく、ユニセフのノートなどを持っていた。悪いことをした、と思った。それ以降は、個人を撮るときは了解を求めて、人が沢山いるときは悪いけどバシャと撮らせてもらった。
 人を撮るときは了解を得た上で撮らねばならないことは分かっているが、ついつい傲慢になっていた。子ども達は、アメを欲しがったり、はだしの足を指差し靴を求めたりすることもあった。了解を求めて、OKの人のみ数枚撮ったけれど、途中からは、そこまでして撮ることに意味がないように思え、撮ることをやめた。でも旅行者は少数民族の人々を見にきている以上写真を撮り続けるであろうし、また一方は撮られ続ける。どうすればいいのだろうか。
 一枚の貼り紙を見た。政府系の女性団体の名で、「路上で少数民族の民芸品を買わないでくれ」というもの。理由は「少数民族の文化を守るため」となっていた。
 観光地であるが故、小数民族の女性たちは、自分達が作った、刺繍やアクセサリー、民族服などを夜遅くまで、路上で売っている。ボクも路上で、藍染めのシャツを、安すぎる値段に悪いと思い、決着価格より少しだけ高く買った。(こういうことはめずらしい)
 夜は寒くてボクは3枚も着ているというのに、サンダルで素足の人もいる。「寒くないか」と聞くと「寒い」という。当たり前だ、やっぱり耐えているのだ。民芸品売りの為に、村を離れ、このサパに家を借り物を売っていると聞いた。その借りている家はボクの泊まっている部屋の窓から見えた。とても狭い家だが何人もの人が出入りしている。
 そうした姿を見て、子ども達から買うことはよくないと思うようになった。子どもたちは、サパと出身の村を行ったり来たりしている。「家に帰りたいか」と何人かに聞くと「帰りたい」という。これも当たり前。小、中学生くらいの子供が夜遅く迄、路上でものを売っているのである。たぶん親の考えで、物を売らされているのだろうと、予想はできる。これは民族の生活習慣を知らなければ判断は難しいが。
 町の人に聞くと、村に帰らなくなる子どもたちもいるそうだ。旅行者は子供と親しくなる。子供は言葉を早く覚える。そうなると、もの売りは子供の方が適しているといえる。それで子供達はここに来て、地元の学校に行かなくなる、という訳。
 路上で物を買うなということには同意できないが、子供からものを買うのはよくないようだ。旅行者が増えて村の生活習慣が変わるのはしかたないが、旅行者も考えて行動しなければならない、特にこういう場所では。

●国境の町ラオカイへ

中越戦争の際、中国軍に占領されたラオカイは、中国に向かう旅行者にとってはベトナムからの出口。サパからラオカイまでミニバスで約1時間半。宿のオーナーは
「ミニバスはバス停までしか行かないから、余分にお金を出せばボーダーまで連れていってあげるよ」
最初は断ったが、4日間世話になった宿でのことでもあり、親切心で言っているのかと思い、そのチケットを買ったが、何のことはないミニバスはボーダーまで行ってくれるだ。またやられた。宿代は払っているのだから、ウソまでつかなくたっていいと思うのだが、後味が悪い。

もうこれで最後かと思いきや、今度は、ベトナムのイミグレーションが、提出したパスポートを返してくれない。それも既に出国のスタンプは押してあるのにもかかわらず。係官は1ドルを要求した。迷った。税関の人や他の職員にお金が必要なのかと聞いたが、皆シカトするだけ。闘うべきかお金を出すべきか、敵は何時間かかっても痛くも痒くもなく、こちらは列車の時間があり明らかに形勢は不利。1ドルはボクの財布から敵のポケットへ消えた。最後までやってくれたネ。
中国の国境の町ホーコー(河口)はラオカイの川を挟んだ対岸にあり、100mほどの橋を歩いて渡る。橋の真ん中で立ち止まり周りをグルッと見渡す、国境越えは緊張と共に、いつも気持ちがいい。でも、あれが10ドルだったらきっと闘った。
 最後までベトナムはベトナムだった。人々の向上心とガンバリズムはどこから沸き上がってくるのか、同じインドシナといっても、国によってどうしてこうも異なるのだろうか。